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2019年10月23日

「いじめ」は誰のもの?

 テレビや新聞を賑わす「教師間いじめ」は、社会問題になりつつあります。その報道やtwitterなどの感想を見ながら、私は次の「いじめ」が始まっていると感じます。「信じられない」「よくあんなこと出来るね」「あの人たちを徹底的に罰するべき」
皆さんの善い心がそれを言わせているのはよくわかります。それはもちろん正しいことなのでしょうが。私は不安を感じます。
「正義」の名の下に、私たちが今度は次のいじめの傍観者になっているのではないか、と。

 あるテレビ番組の爆笑問題の太田光氏の言葉が引っかかりました。そもそも「いじめは楽しいという本能が人にはあるのだ」ということ。
これには「確かに」という声と「そんな気持ち、自分にはない」という声で世論も二分されていると聞きますが、私はそこに「いじめ問題」の鍵があると思います。私自身は特性上テレビのお笑いの「いじり」も受け付けません。過去にいじめられたこともあります。それでも、自分の中に「人が困っている場面が面白い」と感じる心が全くないとは言い切れないな、と思いました。テレビのバラエティーでこれだけ「いじり」がもてはやされているのは、ニーズがあるからです。いじられた人が困っているのを見て大笑いしている人が、「いじめなんて信じられない」と自分とはまるで他の星の生物みたいに人を判断することに違和感を覚えます。それぞれの皆さんが自分の中にもそんな気持ちがないかと向き合ってみない限りは、この問題は解決しないどころかどんどん次のいじめを産んでいくでしょう。

 結局その「人が困っているところ、人の失敗が楽しい」と思う気持ちの延長線上にこの問題があるのです。
太田光氏は自分の「いじり」の基準を「客が引いたらやめる」と言っていました。みんな笑っていましたが、それは大切な一つの基準。自分が周りにウケてどんどん調子に乗ってしまった時、それを止められるのはやはり周りの人。その周りの人の役割が機能しているかどうかは怪しいものですが、本来社会はそうやって成り立つのが理想だと思うのです。
 
 自分の中にある「人が困るのを見て笑ってしまう」という気持ちに蓋をするのは簡単。今まで皆がそうして美しい自分を演じて来ました。しかしそんな感情があるからこそ、どうやってそれをコントロールするか、というところに立って初めて私たちはその感情や行為と共存することが出来るのです。そんな自分の心に蓋をして見て見ぬ振りをし続けることは、結局傍観する側に回るだけ。

 「相手の立場に立って」とは小学校の道徳でかなり言われてきた言葉ですが、それは良くも悪くも「道徳」という時間に限られた現実味のない言葉になってしまいました。感想文や反省文にそう書けば、なんとなくサマになります。しかしこれからの私たちは形ばかりでなく、本当に自己と向き合い自分の弱さを自分が感じてそれをどう乗り越えていくか、を考える必要があります。
 先生や親に「お前は弱いからなんとかしろ」とか「人の立場に立って考えているか」とか、「反省文を書け」とか。全て人から与えられ続けて考えた振り、向き合った振りをするのではなく、本当に自分の言葉で深い話が出来る様になれば良いのです。残念ながら、今そんな話が出来る場所を探すのは難しいでしょう。なぜなら、日本人は口を開けてじっとしていれば、誰かが何かを入れてくれて、どこかに連れて行ってくれることに慣れてしまっているから。そこにいるだけで、倫理的なものの考え方まで人が教えてくれるのです。コピーペーストしていれば、なんとなく馴染めてしまうのです。

 文科省が新しい教育改革で求める「主体性を持った」人は、実際本当に危機的に少なくなっていて、みんなその他大勢の中に溶け込むことに必死になっています。今起こっている様々な問題に大人が真剣に取り組む姿勢を今見せておかなければ。子どもたちは見ています。
 今の私たちの立ち振る舞い、覚悟が日本の未来を左右すると真剣に思うのです。  

2019年10月21日

ハロウィンイベント2019



 今年もハロウィンイベントが無事終了。
ハロウィンと言えば、教室が始まった当初の10年前は巷でもちょっとした憧れの欧米のイベントで、グッズを買うのにも海外からネットショッピングで仕入れたり、何かと大変な行事だった。ハニラミでも、盛大にパーティーをしたりご近所を歩いてお菓子をもらってみたり、とハロウィンイベントは毎年試行錯誤で子どもたちに欧米の文化体験をしてもらいたい、と頑張っていた。

 それがここ近年、街でも大きなイベントがあったり、友達同士でホームパーティーをしたり、何よりスーパーで普通にハロウィン仕様のお菓子が出てきたり100円均一ショップでハロウィンの衣装や飾りが購入出来る様になったり、とハロウィンは誰もにとって身近なイベントになった。
取り立てて「英語教室でハロウィンをする」ことが特別ではなくなった上に、下手にしてしまうと街のイベントより地味だったりお菓子が豪華じゃない…などマイナス要素にもなりかねない。
 そこで、私は自分のしたいこととハロウィンを融合することを考え、ここ数年それがハニラミのハロウィンとして定着している。
それは、広い会場を借りて子どもたちをグループに分け、英語を話さないとお菓子をゲット出来ないシステムを作ったのだ。ブースを数個作ってそこを回って、様々なモンスター(英語教師)に会う。そこでその教師と会話をしながらスタンプをゲット。全員がスタンプをもらえたら初めて、Trick or Treat が出来るのだ。

 してみてわかったことは、この「仮装をしている」という非日常が英語を話す実践にとても役立つということ。そして「お菓子をもらう」という明確な目的があるから、子どもたちはとにかく頑張って英語を話す。声が小さくて先生、もといモンスターに "Sorry?(え?)"と言われたら更に大きな声で頑張って、声を届かせる。その小さな失敗と大きな達成感の繰り返しで、各ブースを回り終えた子どもたちに聞くと、みんな満面の笑みで「楽しかった〜!」と言う。袋にはお菓子がいっぱい。子どもたちはそれが満足。そして私や他の教師は子どもたちが何度もトライをし続けて確実に英語を話している時間に、にんまり。

 私がかつて海外生活の中で、どうしてもアイスクリームが食べたくて、またバスに乗らないと家に帰れないから英語の発音を何度もしてみたり大きな声でハキハキ伝えることを意識して英語を話していたことが、子どもたちに重なる。自分が「必要だ」と思って頑張ることよりも良い学習法は無いと確信した。

 私の教室のイベントは毎回実質完全赤字なのだが、目的がしっかりしているので、自分で納得している。それよりむしろ、その価値を二倍にも三倍にもしてくれる子どもたちに毎年感謝しかない。子どもたちは私に「実践に勝る学びはない」「自発的なトライこそ価値がある」ということを思い出させてくれる。私がすべきことは、子どもたちに教え込むことではなく、子どもたちの興味を引き出して自分で「知りたい!」「やってみたい」というところまで連れて行くこと。

 これをもって2019年の私の企画運営によるイベントは終了。イベントは参加者がいるから成り立つもの。子どもたち、そしていつも最大の理解を示してくださるおうちの方々に、心から感謝。今年もありがとうございました。
  

2019年10月16日

なんでも教材



 家で本当に些細なことで手を強打し、バキバキと音もしたので絶対に折れているだろうと思っていたけれどただの打撲で済んだ。それでも痛みはあるので先週今週と手に湿布をつけていると、驚く程子どもたちやお迎えのおうちの方々が心配の声をかけてくださる。皆さんの優しい気持ちに感謝しつつ、なんでも教材にする私はこの打撲すら教材にしてしまう。結構面白い反応だったので、ここに記しておこう。

 高学年クラスである程度英語でのコミュニケーションが可能なクラスは、レッスン最初のある生徒の「先生、どうしたんですか?」をきっかけに "OK. Please say that in English." (はい、それを英語で言ってみよう!)でレッスンスタート。子どもたちは頭をひねる。彼らもよく知っている表現で必ず言えることがあるはずだし、答えは一つじゃない。特にこういう表現はとっさに使うことが多いので、とっさに出す練習をしておきたかった。
 意外と英語で会話のできるクラスでも、詰まってしまったり難しい表現を探してしまったりして、言葉が出てこない。そんな時、サラッとある生徒が言う。
"Are you OK?"
クラスの子たちの顔がハッとする。
「そっか」
そうそう。まずは一言出してみて。先生の手だけじゃなくて、例えば苦しそうにしている外国の方を見かけたら、言葉がわからないから放っておくってことは出来ないでしょう。(実際海外の方が苦しんでいる時に日本人が声をかけられなかった、ということを双方から聞くことがあって心苦しい)

 そして、そのハードルを超えた時に、次の課題が出てくる。もっとちゃんと聞きたい。もっと違う言い方もしてみたい。そこで、ちょっと高度な"What happened to your hand?" みたいなバッチリの言い方を本気で学びたくなる。そういうシチュエーションに遭遇して「言えなかったから次は言いたい」という気持ちになってこそ、やっと湧いて出てくる学びたい欲。
留学や海外生活をした人が英語を話せる様になるのは、そういう経験が圧倒的に多いから。
 私はそれを週に一度の英語教室の中でしたいと思う。年間四十数レッスンではあるけれど、そこで掴む生徒の会話力は時々来るネイティヴとの会話体験の中で大きく評価されている。やっぱり「使う」ことが一番身につく方法なのだ。

 ちなみに、まだ英語を習いたての低学年クラスでは主にリスニングレッスン。私がこの打撲に至るまでの経緯を簡単に英語で話す。一度目でわからない子には再度話す。三度程話したところで、子どもたちの英語スイッチ発動。嬉しそうにブンブンうなづいて全員が理解した、と判断したところで日本語で思考のレッスン。
「じゃ、そんな先生にアドバイスをください」

「あばれないこと!」
「あわてないこと!」
「ふざけない(?!)こと」


と、ごもっともなアドバイスをいただいて、双方向の学び完了。

 手は未だ痛むけど、みんなと楽しく過ごせたから、善しとしよう。  

2019年10月09日

レッスンは楽しい思い出作り

 


英語教室低学年クラス。週に一度のレッスンに通い始めて5ヶ月目。アルファベットをゲームしながら覚えて、色や動物、挨拶など生活の中で使う語彙も増えてきた。フォニックスで文字を見当をつけながら読むことも少し始める子もチラホラ。私はそんなに慌てていないけれど、毎年秋くらいにこの定着振りと英語への親しみ振りに感動する。子どもたちは毎回ゲームをしている感覚だと思う。でもそれぞれのゲームや活動の中に英語が定着する仕組みを必ず入れているので、数ヶ月経った今その定着を確認してホッとする。
ただ遊んでいるだけじゃない。ただ笑っているだけじゃないんだってことが、また証明出来る。

 私はレッスンを通して、方法さえしっかりしていれば、子どもたちが笑いながら言葉や国際的な感覚を身に付けることが出来ると信じている。その証人はいつも子どもたち。学校とも家庭とも違う文化を作り出し、週に一度に魂を込める。

 先週の帰りに、2年生の女の子が私にゲームの提案をしてくれた。
「教室に家グモがたくさんいるじゃない、あれの数を当てっこしよう。」
それを持ち帰り、私なりに流れを作って今週実践してみた。
How many spiders do you see in this room?
英語を始めてまだ半年も経たない子どもたちだけれど、私の英語を聞き取りジェスチャーや表情から内容を察する。そしてスタートの合図とともに全員が教室の中を歩き回る。
1分後、全員席に戻って報告。
"Two!" "Three!" "Five!"
そして全員で一緒に数えてみる。ただそれだけの話だけど、子どもたちは自分で探して数えて、動き、自分が数えてきたクモの数を大声で私に報告してくれる。じゃぁさ、とクモの足の数を一緒に考えたり、昆虫の足の数、私たちの足の数…と。その中で子どもたちは今まで習ったこともない言葉をたくさん覚える。How many ...なんて教えてもないのに、ワクワクした顔で数を答えてくれる。もちろん私は一切日本語での説明無しだ。
前に習った数も、こうやって使うんだ。昆虫の名前、leg(脚)って言葉…
使いながら子どもたちの心に楽しい思い出と一緒に刻むのが言葉
 その想いで、私は今日も子どもたちと笑い、おしゃべりをし、遊ぶ。
子どもたちは確実に英語を自分のものにしていく。  

2019年10月07日

幸せ体質になろう



 私の「質問箱」に届いたご質問と、私がひねり出したお返事を記しておきます。必要な方に届きます様に。

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Q : 自分の長所が見つかりません。どうしたら良いでしょうか。

A :
 私は生徒たちに「良いもの探し」の習慣をつけるトレーニングをしています。物事の良い部分を見るのは、元々出来る人もいれば練習して出来る様になる人もいます。私は後者です。

 まず寝る前に今日あった良かったことを3つ思い出して寝るのです。
自分一人で習慣づけるのが難しかったら、SNSで#3good などそのチャレンジをされている方が多くおられますので、毎日自分のアカウントで#3goodをしてみるのはいかがでしょう。
 また、家族と夕食の時「今日の一番」を話すなど、とにかく今日あった良かったことを探す練習をします。口に出したり文字にして発表できれば尚充実感があるでしょう。そうして毎日良かった探しをしてください。
 
 次に、人を見た時にその人の褒める場所を探してください。そして、慣れてきたら実際人に伝えてみてください。
「〜さんって、まとめるの上手だよね」とか「さすが、〜さんは人のこと見てるわ〜」とか、会話の流れの中で軽くで構いません。
 その習慣がやがて、そのまま自分に返ってきます。人があなたのことについて褒めてくれる言葉を、「えぇ〜そう?ありがとう」って素直に受け取ってください。そして、それは自分の長所だとして受け止めましょう。
人に言われなくても自分で気づく方もいらっしゃるでしょう。だって、あなたはもう「良いところ探し」の達人なのですから。。。

 最後に。私が今まで出会った千人以上の子どもたちの中に、長所のない子は一人もいませんでした。100%の人に長所があるのです。
ただそれに目を向けられるか否か、だけの話。
あなたの長所が早くあなたの目に止まります様に。
お祈りしています。  

2019年10月05日

弱い人 強い人



 私は人一倍感受性が強い。少し強い言い方をされると「怒っている」と感じるし、大きな物音を立てられるのは苦手。それでも普段は笑って過ごせるようになっている。そんな私だから、周りの人は私が敏感だとは思っていない。それでいい。私が敏感だと知られてしまったら、私はきっと自分が他の人とは違うと自分を責めてしまうから。そういう癖がついてしまっているのだ。

 私は敏感だけど、強い人間だと自分で思っている。意志はしっかりしている。熱い想いを持っているけれど、人に伝える時はソフトに、を心がけている。それを向けられた人が引くのを見るのも怖いから。それでも私は強い。魂を売ることは絶対にしない。偉い人が言うからといって、私の意志に反することはしない。自分の違和感は宝物だと思っている。そう思えたのは、つい最近のこと。若い頃はただ自分は弱い人間なんだと思っていた。ビクビクして、大人数と会うと疲れる。いじめられている人が自分の状況に自分で気付く前に、私が泣く。悲しいニュースを見て苦しくなる。そんな自分は弱いんだと思っていたけど。それが私が持って生まれた宝物なのだと、あるネットの記事で気付いたのだ。

 それからは気が楽。私にしか見えていないものがあるのなら、それを使って人のこんがらがった部分を解くお手伝いが出来る、と自分の力に感謝さえした。それが今指導者という立場で活かされている。

 ある学校の先生が生徒を酷い言葉で何日も罵倒し続けた後、生徒が学校に来なくなった。それを見ていた他の先生が「あの子は思ったより弱いですね」と言った時、黙っていられなくてこう言った。
「弱いとか強いなんですか。あの子が先生と分かり合えなかったのは、あの子と先生の人間関係の問題なのでは。」
「弱い」という言葉で相手に一方的に原因を押し付けてそれを解決とする人をよく見るが、それは全くおかしなこと。少なくとも共感や理解、信頼を教えるのが人生の先輩である大人の仕事で、一方的に上から物を言っておいて伝わらなかったら自分の方法を振り返らず相手が弱かったからだ、とする人に本当にガッカリした。

 パワハラ、モラハラなどと呼ばれるものはそういうことだろう。
伝わるように伝えなければ、それは伝えたことにならない。自分の伝える技術や指導の技術とは向き合わずに人のせいにしてその場をやり過ごそうとする人を、私は「弱い人」だと思う。子どもたちに間違った認識を与える前に、その「強い」と「弱い」の考え方を改めることが大切だ。
 人のせいにして逃げる大人が多い中で、私は自分と向き合い、相手と向き合い、本当の「強さ」を見せる大人として生きていたいと思う。そういう指導者、そういう大人が増えてくれることを切に願う。