2019年04月17日

死ね



 英語教室で週に一度子どもたちと会っていると、一週間の内に流行りの歌や遊び、言葉が変わるその早さに驚くことが多々ある。
その中で、先週までは出てこなかった言葉が教室の中で飛び交った。

 「死ね」

 もちろん笑いながら、その言葉にはふざけ合う仲間同士だから分かり合う親しみの様な意味合いがあることも分かる。
ただ、私自身その言葉に免疫がないのだ。その言葉を聞くと、その意味が強烈に私に届いてくる。

 「ちょっと聞いて」と話をする。
私が子どもの頃、私の周りには「死ね」という言葉を使う人がいなかったこと、6年生の時に都会から転校してきた男の子に教室で「死ね」と言われて酷く落ち込んだことを話した。
 「あのね、もう33年も前のことなのに、その子の名前は未だに忘れられないのよ。」
 「え?なんていう名前ですか」
私はその名前を答えた。もちろん未だに恨んでいるとか、そういう意味ではない。ただその子とはほとんど話したこともないのに、その言葉と一緒にその子のフルネームと顔が浮かんで来てしまうのは、当時の私にとってその言葉を向けられたことが、相当の衝撃だったことを表しているということは間違いない。

 名前を語って、もう33年が経つことを話した。
先生にとって「死ね」はその人が私に「死んで欲しい」と思っているのだ、と届く。未だに笑っては聞けない言葉。

 だからね、先生の前で言わないで欲しい。そして、もしかしたら自分の周りにそういう人がいるかも知れない、ってことを覚えておいて欲しい。
もちろんあなたが本気で友達に「死んで欲しい」と言ってるなんて思ってない。でもね、言葉はそうやって自分が思わない形で人に届くことがあるの。

 その後、もう一週間学校で言い続けて口癖になってしまっているはずの言葉を、その男の子は一度も教室で使わなかった。よほど心がけてくれたのだと思う。その思いやりを信じて語って良かったと思った。

 相手が子どもだからと、ルールで縛ったり、禁じたりするのは簡単。
でも時間を使って本気で腹を割って話してみると、何か温かいものが生まれてくるのだということを、また子どもたちが教えてくれた。
ルールは脆い。でも理解はずっとその子の中で栄養になると思う。  

2019年04月16日

私は頭が悪いから

 


 子どもたちから聞く自分の評価で一番多いのは、この言葉です。
「私は頭が悪いから」
子どもは生まれつき自分のことを「頭が悪い」と認識しているのでしょうか。
それとも、誰かが彼らに「君は頭が悪い」と思い込ませたのでしょうか。

 もちろん答えは後者です。そんな漠然とした解釈が自然発生的に出てくる訳が無いからです。誰が、どんな方法でそれを植えつけたのかは分かりませんが、どこかの段階で子どもたちは「自分は頭が悪い」という最初の自己否定の言葉に出合うのです。

 ある生徒が教室の帰り際、聞き慣れたこの言葉を言っていたので、「なぜそう思うの」と聞くと「お母さんがそう言った」と。
「先生はそう思わないけど。○○は頭がいいと思うよ。だっていつも先生が気づかない様なことに気づくじゃない。先生すごいって思うわ。」と言うと、その子の目がキラリと光った。
「もう一回言って」と言わんばかりに「え、今何ていったの。」
もう一度同じ言葉を繰り返す。その子の顔が輝き出す。
「へぇー、私、頭がいいのかな」
その顔を見ながら涙がこぼれそうになるのを隠しながら「そう、頭いいの」と更に繰り返す。
 そのキラキラした顔のまま「先生、See you!!」とスキップしながら帰っていく後ろ姿を見送りながら、その曖昧な言葉がこの小さな子どもたちの中で大きく膨らんで、子どもたちが伸びるのを邪魔していることを悲しく思った。

 言葉一つで人はどこまでも飛んでいける。言葉一つで人はどこまでも深く落ち込むことがある。

 言葉を教える立場として、改めて言葉の持つ力の大きさを感じた。
そして、子どもだけでなく多くの方に言葉のプラスの力をもっと伝えたいと思った。  

2019年04月12日

受験で得たもの



 我が家で2番目の受験生、息子。
長女は先の見通しまで立てての希望で私立専願。入試も早い段階で終わったため、この度全くゼロからスタートの息子の受験は、ある意味懐かしくて新鮮だった。
 そもそも息子にはなりたい職業が明確にあり、そこに行くには高校入学は必須ではなかった。
中学3年生になる頃に息子が言ったのは

 『俺、高校行かんでもいいっちゃけど。』

 昭和の人間である私だが、だいぶグローバルな視野は身につけたつもりではいた。
でも高校に行かずにプロドラマー一本で行くという息子に思わず
『手が腱鞘炎になったりすることもあるかも知れんやん。もう少し学んでおこうか』
と、思わず妙なアドバイスをしてしまった様な気がする。

 人生経験、というか日本人経験は彼より多少長いので、多少の保険を贈りたい気持ちがあったのだと思う。
でもそれと同時に息子の本気に触れ、自分自身の「学歴さえあれば何とかなるだろう」という考え方も変える必要があるな、それだけでは何ともならない世界だってたくさんあるはずだ、と心を少し緩めた

 結局彼は「公立に行けたら、学費の差額でドラム練習のサポートをする」という私たちとの約束の下高校に進学することにして、それなりに公立高校を目指して頑張っていた。特に私立入試が終わってからの一ヶ月は何年分も受験生らしく振舞っていた様に思う。
塾には行っていないが、家にいるとすぐにドラムを叩いたりギターを触ったりしてしまうので、家以外の勉強場所を求めて土日と放課後はほぼ図書館に入り浸っていた。

 私たちはプレッシャーをかける代わりに、自分たちなりの形で息子を応援した。
私は息子の部屋の窓辺、丁度顔を上げたら見える位置に彼が選んだ花を植えた。
夫は休日に息子の好物をたくさん入れた弁当を作って、図書館に届けたりしていた。
それが私たちのサポート。

 息子には図書館で顔見知りが出来た。
彼曰く「大人なのに毎週末勉強をしに来ている」その人は、
どうやら警察官で昇進試験か資格試験を受ける様だった。
息子と時々短い会話を交わし、受験前には激励の言葉をくれた。

 図書館が休みの月曜、息子は少し遠くにあるスターバックスに友達と自転車で出かけていた。
アルバイトのお兄さんがカップに「絶対合格」と書いてくれた、と喜んで見せてくれた。
結果を教えてね、と言われたらしく、合格発表の後律儀にお兄さんに出会った同じ曜日の同じ時間に出かけて行った。
次はおしぼりに書かれた「合格おめでとう」を嬉しそうに見せてくれた。

 受験なんかしなくてもいい、と言った息子だった。
公立高校入試に向かってガムシャラだったのもドラム練習のサポートを得るためだったとは思うが、それでも一生懸命やっていた。自分の弱点と向き合い、結局弱点克服ではなく得意を伸ばす方を選んだ。いろいろ覚悟をして腹をくくり、自分自身と向き合うという大きなチャンスを彼は彼なりの方法で掴んだのだ。
そして、社会の中で頑張っている人たちと出会い、応援したり応援されたり。
自分もその中で思いやりや優しさを受け取り渡すことを体験した。

 正直、私は受験はどうでも良かった。
息子が自分のしたいことをしっかり出来ればそれが私の幸せ。
でもこうして彼が受験を通して経験したことは、今後夢を追う中でも必要だったことだと思う。
人の温もりや励ましは、当たり前では無い。
 自分が一生懸命だから、向けられるエール。


 さぁ、思い切り自分の好きなことを好きなだけ、やろう。

 

  

Posted by Nami sensei at 15:33Nami先生の育児コラム

2019年03月03日

それぞれの持ち味



 私は人の能力をを見る力があり、またそれを言葉にして伝えるのがとても得意です。



 この持ち味に気付かずにずっと生きてきた私は、人の感情や雰囲気が視覚的に見える自分の特性に、とても苦しめられてきました。

いじめられている子が感じる前に、その子の中にある悲しみの感情を受け取ってしまうし、「あの子を仲間はずれにしよう」と企てている人たちが行動に移す前にわかってしまう。先生一人一人の機嫌も手に取るようにわかるし、私自身に向けられた怒りでなくても、負の感情を強く感じてしまう私には苦しい時間が多かったことを覚えています。毎朝、仲良しの子の機嫌が今日はよかったらいいな、と願いながら学校に行っていました。



 正に人の感情に振り回される子ども時代だったのです。そこにメリットは全くなく、でも他の人も同じに違いないと信じていたので、みんな頑張って生きているんだから、と自分をただ奮い立たせ続けて生きてきました。



 さて、生まれて40年以上経った今、私は母親として指導者として自分の大半の時間を過ごしています。人の感情を吸い込んでしまうのに、なぜ敢えてこれ程までに人にまみれる生活を選んでしまったのか、自分ではわからないままに引き寄せられてきましたが、やっと自分の才能を活かすことが出来ているのだと気付きました。

 子どもを育ててみて、また教育者になってみて、大人がよく子どもに言って聞かせる「人の気持ちになって」とか「相手の立場に立って」ということが、他の人にとって意外と難しいことなのだと気付いたのです。


 私にとってそのハードルはとても低く、相手の気持ちになって涙を流すことも度々あります。子どもたちが何も言わなくても、その子どもたちの気持ちや悩みを感じる私に、子どもたちが次第に集まる様になってきました。



 人の気持ちが視覚的に見える、というと大げさですしオーラの様なものが見えるのか、といわれると私はそんな非科学的な言い方はあまり好みませんが。少なくとも学校勤務の時は、毎日授業をするクラス一つ一つに入った瞬間に、そのクラスのその日の雰囲気が見えていました。そこでその日のレッスンプランを少し変えることもありました。今、自分のレッスンでも教室に入ってきた瞬間に、子どもたち一人一人のその日のムードがわかります。

 何も状況をコントロール出来ない子ども時代を過ごし、大人になって変わったのは、大人だとその特性を能力として活かせる、というところでした。選択の余地なく与えられ続ける子ども時代から、自分で選べる場面が格段に増えたことは、何よりの救いでした。



 私は教育の中でも「出来ないことを指摘する」のではなく「励ます」方を選びました。どんなに大人を困らせる子でも絶対何か良いものを持っていて、それに本人も周りも気付いていないだけなのだ、という考えの下本人やお家の方にその子の良いところを見つけて伝える活動を始めました。



 そこで驚いたのは、そこからの本人の伸びと、お家の方の喜びの声。気付かないことに気付いてくれた、と感謝の声をたくさんいただきました。
でも何よりも、今まで負の感情をたくさん吸い込んできた私は、こうして人の幸せや希望にあふれた感情に触れることで、とても生きやすくなったのです。



 そう思うと、世の中にはいかに負の感情が多いことでしょうか。不安やねたみ、自信の無さや憎しみ、でも自分に可能性を見出した人は強いです。自分を信じて生きていくことは、希望そのもの。私は今自分がとことん迷惑してきた自分の特性を、自分だけでなく周りの人も幸せになる能力として認めることが出来ました。



 冒頭の言葉は、過去の負の感情にまみれた私からは出てこなかった言葉です。しかし周りの人たちとの関わりの中で、自分の能力を見出し自分を認められたからこそ、今こうして堂々と皆さんにお伝え出来るのです。



 もう一度言います。人は必ず宝物を持っています。その能力で自分も周りの人も幸せになることが出来ます。

 出来ないことばかりに注目してしまう社会ですが、出来ないことがあるのならば、その反対だって必ずあります。



 自分に出来ること。
 したいこと。好きなこと。



 それに目を向けていきませんか。一緒に探しましょう。
あなたの辛さは、きっとあなただけでなく、誰かの喜びに変わります。
   

2019年02月09日

おっと、失言!




 私のブログも、ついに政治ネタデビュー!
…なんていうのは、冗談で、今日のお話は「言葉」について。

 度々報道される政治家の失言。差別発言や偏った考え方による発言は、公の場で話をする機会のある私にとって、かなり衝撃です。
なぜなら、人の前に出てお話をするということは、本当に大きな事。影響力も大きいので、想像力をたくさん使ってどんな人にどんな風に届くかをしっかり考えてから話すべきなのです。そして、人を見下す心や自分さえよければ、という気持ちは幾ら演説で上手に国民の心を掴んでも、フッと気を抜いた瞬間に出てしまうものなのです。
 子どもの頃、家で行儀悪くして親に注意され、「大丈夫、大丈夫、外ではせんから!」と言いつつ、結局ちょっと気を抜いた拍子に外でもその習慣が出てしまって赤っ恥、そんな経験を思い出します。いくらよそいきの自分になってみても、その人の中にあるものはちょっとした拍子に出てしまうのです。

 小学校の外国語活動について学ぶ時に、研修の中で言われた言葉があります。
「小学校で仕事をするならば、小学校で使われる言葉は知っておくべき」
「あの、なんとか学級とやらが…」なんていういい加減な言葉は絶対に絶対に口にするな、ということでした。そこに私の本気度の無さが出てしまうのです。
 心から納得でした。プロとして当然だと思いました。その専門用語はもとより、内容や歴史、問題点まで知ってこそ、現場の方々に認めてもらえるのです。

 私は英語ではありますが言葉を教える立場なので、日本語を含む「言葉」をより大切にすることを心がけ続けてきました。
「言葉」はコミュニケーションツールというのは散々言われていますが、コミュニケーションと言っても「良い」コミュニケーションのためのものだと思うのです。人を励まし、お互いに元気を与え合うことが出来る様なコミュニケーションを目指したいのです。

 私は自分の「言葉」で人の心に寄り添うことが出来たら、「言葉」の教師としては最高だと思っています。それには嘘があってはいけないのです。
相手を常に尊敬し、その尊敬の気持ちを相手に伝える気持ちで教壇に立つ毎日です。

 そんな中、大きな影響力を持つ人たちの心無い、プロ意識にかける言葉を見て、少しガッカリしながらも、自分の仕事の大切さを思い知らされています。  

2019年01月30日

チャンスが見えますか



 ハニラミは、英検の準会場です。
準会場は大手の「うちは英検○○級を○人出しました!」という広告を打っているところならば良いこともあるでしょうが、ぶっちゃけて言うと実は運営はとても大変な上、特に何もお得ではないのです。

 でも私が準会場をしているのには、一つの大きな理由があります。
 3年前に教室を大きくした時、保護者面談の中で「英検を受けさせたいけど、部活を休めない」等のお話を伺いました。英検がこれだけ大事だと言われていても、学校の先生方の温度差は大きく、英語に関心のない先生方もいらっしゃるのでしょう。いろいろ言いたいこともありましたが、私は文句をいう前に楽しくなるアイデアを!の精神なので、よし、教室で夜英検やっちゃえ〜!と部活が終わってから来られる時間に設定しました。特に英語を今まで頑張ってきたけど部活で受験が難しい3級と準2級を中心に夜開催にしています。

 英検に限らず、私たちは生きている中でたくさんのチャンスに囲まれています。それを掴む勇気があるか、掴む意欲があるか、また自分にとって掴むタイミングなのか、が違うだけで、そこに散らばっているチャンスの数は同じだと思います。そしてどのチャンスも、ばら撒かれた種のように、そこから何が生まれてくるか、何を育てられるかは未知なのです。チャンスを掴んで、それから大きな花を咲かせる子どもたちもたくさん見てきました。そのサポートも励ましも、そしてチャンスを作り出すこともしてきました。英検準会場は私にとって「チャンスを作るチャンス」だったので、迷わず掴んだ訳です。

 チャンスはリフトの様に次々に目の前に流れてくるのです。もしかすると、目の前の友達が自分が迷っている間にそこにヒョイっと乗り込んでしまうかも知れません。でもその苦い経験は、また次のチャンスが巡って来た時に、あなたの背中を押してくれる力に変わるでしょう。

 焦らず、自分のタイミングで。でも、いつかその時がきたら「エイッ」とそのリフトに乗り込んで、今までと違う世界を見てみましょう。
覚えておいてください。あなただけにチャンスが回って来ないのではありません。よく見て見たら、目の前にチャンスは散らばっています。
掴む勇気さえあれば。
 
 チャンスは、いろいろな形をしています。
一見ピンチに見えることも、実はチャンスなのかも知れませんよ。  

2019年01月27日

タイミング



 英検の季節、いろいろな級に挑む子どもたちとそのおうちの方々から、多くのご相談が寄せられる。
生徒からは「全然やる気が出ません」
おうちの方からは「うちの子、英検の準備全くしないんです」

 正直とても難しいと思っている。
私の中で「それはその人のタイミングではないのだろうな」と思うから。
 心構えとしては、本人は英検当日までそのタイミングがくるかもしれないから、ビッグウェーブが来たら飛び乗る準備を。そしてご家族はただそれを見守る覚悟を。それが一番のアドバイス。

 親はお金を払っているから歯がゆい。私も試験前にのんびりしている我が子を見て腹を立てたり、言い合ったりしたことがある。でもそこから何か生まれたことはない。親が何と言おうと、本人がどうしても必要になったら机に向かっているし、そうでなければ悶々としているだけ。どのテストにも共通して言えることだが、親は飽くまでも試験を受ける本人とは別の人であるということを意識しておくと良い。

 「よーし、やってやるぞ」とタイミングが来た時に波に乗ることが出来るのは本人だけで、親は一緒に乗ることも出来なければ先に乗って手を差し伸べることも出来ないのだ。だから、親が「ほら、今がタイミングよ!」と言ったところで、それが本人のタイミングと合うかどうかはわからない。

 でも私は親がある程度自分の気持ちを伝えることはいいことだと思う。それは、もしその時子どもがその言葉を受け取るタイミングでなくても、その言葉はその子の中に留まり、いつか波が来た時に乗るきっかけになり得るから。例えその時に言い争いになっても、親の正直な気持ちや想いを知ることは悪いことではない。悪いのは、子どもを罵ったり、悪い言葉で否定したりすることであって、それは逆に波に乗る勇気を子どもから奪ってしまう。大事なのは「親の気持ち」を正直に伝えることだ。

 さて、タイミングに関して。指導者として、また一母親として、この「タイミング」について考える様になったら、とても気が楽になった。どっしり構えていられるから。少し落ち着いて見てみると、子どもがソワソワしているのがわかる。波が来ないことに焦りを覚える。テストで合格したいのに、どうしてもやる気が出ない。理解が難しいかも知れないが、その苦しみと不安は子どもたちにとって怖くて大きなもの
いざ波が来た時にヒョイとその波に乗るために、親に出来ることはその子が勇気を持てる様に励ますこと。支えること。再度言うが、罵倒したり自信をなくすほど叩きのめすことではない。

 自分自身を考えても、「今しようと思っていたのに」とか「いつも気になっていることだけど、なかなかする気になれない」ことに対して、咎められたりキツく言われたりしたら、「今度しよう」という気持ちすら無くなってしまうだろう。なので、そのタイミングを一緒に待って、動き出したらそっと応援してあげよう。

 英検に関して言えば、英検に落ちて一番残念なのは、当然子ども自身。合格して一番メリットがあるのも子ども自身。自分を助けてくれるものだと分かっているなら、トライを続けていつか大きな波に乗るだろう。そう信じて励まし見守るのが、一番の近道だと思う。

  自分で波に乗る力。それは学力と同じくらい、いやそれ以上にその子の人生を支える大切な力となるだろう。

 

  

2018年10月21日

ハロウィンの思い出



 今や、街を歩けば8月の終わりくらいからショーウィンドーはハロウィン。
英語教室を始めて10年が立とうとしているけれど、こんなにハロウィンの装飾やラッピング、お菓子が簡単に手に入る時代が来ようとは、夢にも思いませんでした。
以前はハロウィンは海外からお菓子やラッピングを取り寄せるという大赤字行事。今もその名残で、ハロウィンは教室の赤字当たり前行事となっています。
私のハロウィンパーティーは、他の教室や海外からの留学生ボランティアに声をかけて、子どもたちにいつも習っている先生以外の人たちと「英語で楽しくコミュニケーションする場」と決めています。

 最初にゲストティーチャーの自己紹介を英語で聞くところから。みんな、うんうんと頷きながら、時に名前を復唱したりしながら真剣に聞いています。
そして、私といつものレッスンの様にハロウィンキャラクターやハロウィンの言葉をチェック。アルファベットの読み方、フォニックスもおさらいして完全に英語モードに。

 アイスブレイクゲームとして、人数合わせゲーム、コミュニケーションゲームをゲストの先生も交えて楽しみつつ、トリックオアトリートタイム!
今回は5つのブースに分かれた先生たちのブースをグループで回りながら、ミッションをこなしていく。あるブースでは「英語パズルに挑戦せよ!」あるブースでは「先生に出来る限り多くの質問をせよ!」あるブースでは「みんなでSay "Cheese!" いいお顔でハロウィンの写真を撮ろう」。各ブースでミッションをクリアしたら、スタンプをもらい、全員スタンプをゲットしたらトリックオアトリート!
皆さんのバッグがどんどん膨らんでいきます。子どもたちは時々バッグを覗き込んでニンマリ。

 それが終わったら、Nami先生が作ったジャッコランタンに火を灯してみんなで見ます。
今年は保護者の方からいただいたかぼちゃをくり抜いてみました。(中身はもちろん美味しくいただきました)
「日本のかぼちゃは硬いので、彫るのが大変。先生がみんなの代わりに彫ったから、今日はみんなで一緒に見よう」
電気を消すと、子どもたちから歓声が上がります。キレイ〜!

 最後にコスチューム賞。私は決められないのでゲストの先生方に一人ずつピックアップしてもらって、表彰。
全体写真を撮ったら、帰りはドアのところで今日頑張ったポイントカードと引き換えに、キャンディーすくい

 最後までワクワクドキドキのハロウィン
企画運営と毎年頭を悩ませる、産みの苦しみなのですが、この子どもたちの笑顔で吹き飛びます

 このイベントは、もちろん英語教室のイベントの一環として行なっているのですが、遠い将来、子どもたちが慣れない仕事に疲れた帰り道ふとショーウィンドーでジャッコランタンを見た時、また辛くて逃避したいような気持ちになった時にふと心に広がる、温かい子ども時代の思い出の一つになるといいな…と願いを込めて行なっています。
今のみんなに、そしてずーっと未来のみんなに、届いたかな。
今年も楽しかった!Happy Halloween!!  

2018年10月18日

英語スイッチ




 ホームステイの受け入れをした。今回は息子と同じ年齢の女子高生。我が子同様に話しかける一週間。そこで改めて思ったこと。
その一週間が丸々、我が子には日本語、その子には英語と二つの言語をほぼ同時進行で話し続ける毎日だった。その中で、私の頭の中は英語のスイッチと日本語のスイッチをガシャガシャ押したり切ったり。英語スイッチ入れっぱなしで日本語を話すと、我が子に向かって変な日本語を話していたり。やっぱり言葉を話す時私たちの中には明確なスイッチがあるぞ、と気付きました。

 英語を話していると、よく聞かれるのが「何語で考えてるんですか」という質問。
そこで考える。日本語で話している時、日本語で考えてるかしら。ドラマみたいに心の声がクッキリハッキリ聞こえてきませんよね。
多分絵みたいな、イメージみたいなものが頭の中にボワワワンってあって、それを何語を使って表そうか、って考えるんだと思います。
私のイメージとしては、そこで相手が英語しか通じない人だったら、英語スイッチにガシャンと入れる。韓国語なら韓国語、日本語なら日本語、その時にふさわしい言語を、自分の能力に合わせて出すんだと思う。他言語じゃなくても、例えば日本語だったら相手によって敬語で話したりフランクに話したりする。
また、相手が同郷の人ならお国言葉で話したりする。そういうイメージ。その時頭の中は標準語ですか、方言ですか、って聞かれてもわからないですよね。

 ということで、必ず言葉を話すときは頭の中にあるイメージを外に出すための出口を決めるスイッチがあると思うんです。
 
 そこで、中学生や日本人がどうして英語を知っているのに出せないか、という疑問の答えにたどり着きました。
導き出した答えはこれです。「中学校になると英語を日本語で習うから」結局内容は英語ですが、授業は「日本語」の授業に他ならないからです。スピーキングに必要なのは、英語スイッチに入れた状態を保つ練習。
日本語スイッチに入ったまま英語という教科を習うことは、英語スイッチを作っているだけの作業で実際作動させる方法を学んでいない状態なのだと思います。

 今後本気で英語を話せる人を育てよう、と考えるのであれば、英語スイッチにいれたまま会話をする時間を増やすことです。それは学校だけの問題ではありません。家庭でも、友達どうしでも、いつでもどこでも出来ること。

 英語、話せたら絶対いい!
人生がもっともっと楽しい
是非みなさんの英語スイッチ、動かしてみてください。

 
  

2018年10月03日

英語の学び方



学校バザーのボランティアで、近隣の小学校に出かけた。
久しぶりの小学校。子どもたちが行き交い、皆嬉しそうに何を買おうか、見て回っている様子が可愛らしい。

"Hello, Nami sensei! How are you?"

声がしてふと顔を上げると、教室の生徒がニコニコ立っている。
思わず英語モードに入って英語で挨拶を交わす。
その子の友だちが「え?今なんて言ったの?」と生徒に尋ね、生徒は丁寧に挨拶の内容を説明している。私がその子たちにも "Hello." と呼びかけると、その友達も笑顔で挨拶。

それから相次いで教室の生徒たちが通りかかり、皆

"Oh!! Hello, Nami sensei!"

え?なんで先生ここにいるの?ってビックリ顔。
でもとっさに流暢な英語で話しかけてくれる。

子どもたちが思わず先生に会った〜というリアクションと一緒に自然な英語で明るく声をかけてくれたのが、とても嬉しかった。そして、周りの友達にも英語を教えて一緒に挨拶してくれたり、私に友達や兄弟を紹介してくれるものだから、私は全く知らない子どもたちにまで
"あ〜Namiせんせいだ〜!”
と、あちこちで声をかけられることに。

英語に対する壁が全く見えず、私を見かけるのと同時に条件反射的に英語モードに変わる。
そして一番嬉しかったのは、その英語をふんわりと周りの友達にもシェアして、友達も私に話しかけてくれたことだ。

以前、かなりいろいろな外国の方に「日本は英語を話せる人が少ないが、英語を話せる人でも上から目線の人が多くて、話しづらい」と言われて、それはどうしてなのか、ずっと考えていた。日本では英語が競争の道具だから、そうやって学んだ人は上から目線になってしまうのかな。
本当は言葉って、人と笑いあったり、励ましあったりする為にあるんじゃないかな…
「君の英語は温かい」と言われたのが何より嬉しいことだったけれど、それをどう人に伝えていけばいいんだろう。

私が英語を学んだのは、ニュージーランド。
たくさんの人が優しく声をかけてくれて、私のつたない英語をじっくり聞いて、とにかく待っていてくれた。
あの雰囲気で英語を話す様になったから、私もそんな雰囲気を再現したい、そう思って英語教師を続けてきた。

あなたの夢は叶っているよ
と子どもたちが教えてくれる、そんな出来事だった。
優しくて明るくて、まっすぐで。
大好きな私の生徒たち
これからも温かい輪を一緒に広げていこうね。