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2020年06月03日

教える人のハニラミメソッド

 英語教師として、今まで経験上得た知識とノウハウを、どこかでどなたかに役立てていただけたらいいな、と漠然と思っていました。セミナーを開くか、本にまとめるか、などいろいろ考えつつ一向に自分の中で答えが見つからず、このコロナ禍で出来た時間でまずは人からいただいた質問に答える形で動画配信を始めました。
 どうやら、私は自分の指導方法が自分では何が良くて何が人と違うのか、わからない様でした。人から質問をいただくようになって、そのお答えをしている時に自分自身で「なるほど、私はそういうところに気を留めているんだな」と気付くことも多々あり。
この形はとても気に入っています。他の中学英文法の動画の様に動画に手は加えていませんので、動画をご覧にならなくても内容は伝わります。ラジオの様にお耳のお供にどうぞ。

 英語指導者のみなさまだけでなく、ご家庭でお子さんと一緒に英語を学んでみたい方々、英語を教える小学校の先生、また先生の卵さんたちにお役立ていただいている様で、嬉しいです。よろしければ、ゆるりとどうぞ。
ご質問も動画についているリンク「質問箱かインスタグラム」にて随時受付中です。

https://note.com/namio_educator/m/m3a24ea8887d8  

2020年05月19日

コロナ禍の"オンラインMoms' Cafe" にて子育てを語る




 さて、この非常時の「心の寄り添い」をテーマにしてきた私のオンライン企画も最後となった。最後はこのコロナ禍で一番疲れ果てているであろう大人のための企画。
 私は普段、数ヶ月に一度教室をカフェに見立てて時間の合う保護者が集まり、おしゃべりをする「Moms' Cafe」というものを開催しているが、そのオンラインバージョン。ただ、オンラインは抵抗がある方が多いことを知っていたので「カメラ・マイクオフで大丈夫。チャット機能でご意見ご感想をお送りください」とした。

 あらかじめいただいていたトピックは「子どもを放牧する様に育てるのが良い、と本に書いてあったので実践してみたが、子どものスイッチが入ったかどうかはわからず。結局元の自分に戻ってしまう。いつまで見守るのが良いのか」というもの。
 私自身は3人の子どもたちが全員中学生以上、と大きいのである程度の子育ての心配事は過ぎ去ったのだが、もしこれが10年前に起こっていたらと想像すると、それだけでもその大変さがわかる。きっと不安で押しつぶされそうになっているだろう。そして、いろいろな情報を見ては自己嫌悪に陥り、更に不安になっていただろう。
 
 ほぼ子育て卒業の私が今、こうして皆さんのお話を伺うことは「他人事感」がないか?と自問もしてみたけれど、逆にだからこそ笑ってお話を聞けるだろうとも思った。子育て真っ只中の時は、答えが欲しい。今はこうだけど、将来はきっと大丈夫だという保証が欲しい。その気持ちが痛いほどわかるからこそ、私は私の経験を活かすことが出来ると思ったので、皆さんからのご意見も伺いながら、私は私の経験上の話をしてみた。

 子どものスイッチがいつ入るか、の話だが。ではそのスイッチが入った状態がどうであったら、自分は満足するんだろう、と考えてみることは面白い。実際おうちの方も先生も「自分が言う通りにしたらOK」という、とても曖昧な価値観の中で子どもと向き合ってしまいがち。でもその子にとっては何がスイッチなのか。そこを考えてみると面白い。もっと言うと、それを親子で話し合ってみるのは楽しいと思う。そこでもし「子どもの心配をしていることの目的」が見えたらその目的に沿って動くことが出来たら良い。
 例えば掃除して欲しい理由は、汚い部屋で過ごすと病気になるからか、それとも掃除をするという習慣をつけて欲しいからか。そして掃除をすること、宿題をすること、午前中は家にいて欲しいこと、「お手伝いない?」と声をかけてくれること…など、自分が子どもに言っていることや言いたいことをリストアップしてみた時に、その数の多さを確認してみたら良いだろう。
そして、一体どれが子どものために本当に必要と思うか、その上位1つか2つを話し合いながら習慣を作ってみれば良い。
 ついつい勢いで思いつくまま指示を出してしまいがちだが、届いていないと思うならば、実際それは自分が口にしているだけで本当に伝えたいことではないのかも知れない。「親だから言わなきゃ」という義務感だから伝わらかも知れないのだ。
 一方、もし自分がその子の中に入ってこの状況を見てみたら、のんびりしたい時に否応無く上から5つも6つも指令が下る環境は耐えられないだろう。だから、1つか2つ。子どもに選ばせてみても面白いと思う。子どもはどんなに嫌な環境でも逃げられないのだ。家と学校、習い事以外の場所に居場所を探すこと自体が大変なのだ。
 これを対話の機会にしてみたら親子の上下関係がググッと変わって、子どもたちに主体性が生まれることだろう。

 子どもたち同様、私たち自身も自分のハードルを下げることが大切。
「指令すること」が目的になると、自分もしんどい。だから「伝えること」「子どもと一緒に決めること」など目的を再確認してから、実行みたらその目的は達成しやすい。

 子育て中に取り入れる情報程、武器にも毒にもなるものはない。
先輩や専門家の言うことに「なるほど!」と思いながら「でも自分には出来ない」と自己嫌悪の毒地獄へ落ちていく。だからこそ、私は自分の失敗談も話したいし同じ自己嫌悪や悩みの中にいた時の話もしたい。そして今言えることを伝えたい。

「あの時に大成功の実感があったら、きっと親子共成長はなかったと思う」

ということを。これでいいのか、と思いながらも少しずつ少しずつ。本当に3歩進んで2歩下がり、立ち止まってしゃがみこんだりしながら、気がついたら後ろに道が出来ていた。そんな子育て。でも子どもたちの手を離すことはしない。心配したり不安になったりするのは、想いがあるから。だから、悩むことは大切なこと。悩んだり不安になる自分を責めないで欲しい。

 そもそも子育てに正解不正解はなく、見る人によってその価値が変わる。気をつけなければいけないのは「自分の視点を持つこと」。人の価値に振り回されていると自分を見失い、自分の価値を見失う。それが一番怖いことであり、陥りがちなこと。今思い返しても、私が一番辛かったのは人の意見に振り回されていた時だと思う。

 例えば今、我が子の髪の色は黒ではない。
これを「子育て失敗だ」と言う人がいたら私はどうするだろう。きっと何も感じない。それがその人の価値観であり、私とは違う価値観をお持ちだな、と思うだけ。
 まだ子どもが幼かった時の、人の意見に振り回される私のままだったら、私は自分が失敗したと思って凹むかも知れない。もしかすると「いや、この子は実はいい子で」なんて変な言い訳をしてしまうか知れない。
 でも、この人はこの人の価値観で生きていて、私は私。一番大切なのは我が子もそうやって人の価値観を認めながら自分の価値観も大事にしながら生きていってくれること。だから私自身は幸せなんです。

「幸せな子」を育てるのではなく、
どんな境遇におかれても
「幸せになれる子」を育てたい。


これは皇后であった美智子さんの子育て論だけれど、この言葉を私自身もいつも心に留めている。幸せの価値なんて人それぞれ。時代によっても変わってくる。「自分の幸せ」を知っている人が一番幸せなんだと思う。

 そんなメッセージをこれからも送っていきたい。
この情報化社会だからこそ、誰かの「幸せ」ではなく目の前の我が子にとっての「幸せ」を考えていたい。


  

2020年05月18日

英語はツール。マインドを整えよ。



 息子が、コンビニで働いていたネパールの方と話したと言っていた。日本語で気さくに話しかけてきた、と。息子の友達が英語で話しかけたら、英語も普通に話していたらしい。
 母語と日本語と英語と。語学力もさることながら、外国で母語以外の言葉で働きながら人と会話をしようとする姿勢がとても素敵だと思った。英語さえ話せたらなんとかなる、と思っている人に伝えたいことだった。
 よく言われることだけど、言葉が話せるなんて自慢にならない。むしろ、それを使って良い感じの人間関係を作ること、またその努力をすることに焦点を当てて英語指導をしている。そこは絶対にブレてはいけないと思っている。

 今後子どもたちが一緒に働いていくのは、間違いなくこうした高い意識を持って学んだ海外の若者たち。
 英語なんて所詮ツール。日本語だってどんなに上手に話せても、人に引け目を感じて人を攻撃ばかりしたくなる時や、劣等感いっぱいで人がみんな自分より素晴らしく見える時、人と上手にコミュニケーションを取るのは難しい。

 私が感じているのは、そこ。

 人と比べたり比べられたり、「あなたはダメね」って言われ続けたりしたら、卑屈になる。自分のことを愛せなくなる。
 どんな性質もどんな困りごとも自分の愛すべき部分だって教えてくれるのは、身近な大人だったり友達だったりするんじゃないかな。
最近読んだ本に、「赤ちゃんの時から自己嫌悪の人なんていない」って書いてあったけど、その赤ちゃんが成長する過程で「自己嫌悪」に落としちゃうのは周りなんだよね。

 今子どもにプレッシャーを与える大人は、自分自身がどこかで自己嫌悪に陥って、そのまま大きくなっていたりする。
だから、ここで止めなくちゃ。本当にそう思う。
 
 英語教育を考えた時、何を大事にするかを私たちは今一度立ち止まって考える必要があると思う。  

2020年03月13日

オンラインレッスンでわかった理想のレッスン



 このところの新型コロナウイルス騒動で、子どもが集まる教室でのレッスンが出来なくなった。出来なくなったと言うと受動的だが、私はフリーの教室運営者。誰かの決断に従うのではなく、自分でレッスンをするのかどうか選ぶことが出来る。そこで他国が取っていた「人との接触を断ってウイルスの広がりを抑えた」という話を支持して私も出来るだけ子どもたちを危険に晒さずに英語のレッスンをすることを考えた。
 しかし世間では学校の休校が決まって実施するまでたったの3日。私もそのタイミングでの決断を迫られた。

 そこで昨年からなんとなく視野に入れていた「オンラインレッスン」が浮かんだ。大人向けには既に始めていたが、子どもたち相手はなかなかチャレンジ。私は対面にこだわってレッスンをしてきたので、これは私にとって大きなチャレンジだった。
 でも来週もレッスンは容赦無く続く。私自身もそのまま続けたい。そう考えている内に"Leap before you look, "(見る前に跳べ)と私は自然に教室の全生徒に向けてメッセージをしたためていた。そしてその週末の内に教室生のマイクやカメラテストをオンラインで行い、月曜日からレッスンを始めた。

 そうやって始まったオンラインレッスン。教室での楽しさを画面越しにどう再現できるか、又オンラインだからこそできる期間限定の楽しみもあるのではないか。「見る前に跳べ」は、いつも私のスタイル。まずはやってみよう。そこから一緒に答えを見つけていこう!子どもたちと一緒にレッスンを作るスタイルだ。
 画面にポツリポツリと現れた子どもたちの顔は緊張気味に笑っているので、「リラーックス」と声をかける。「急におやすみになっちゃったけど、どう?」なんていつものように始める。画面越しに子どもたち同士も再開を喜んで、ほんの前の週まで一緒に教室でレッスンをしていたのに、とても懐かしい気持ちになって "Hello!" "Hi!" などと懐かしそうに声を掛け合っている。不思議とこのメンバーが集まったら、英語モードが作動する。習慣は侮れない
 レッスンは楽しく続く。一番の驚きは、私が自由自在に子どもたちのマイクをミュート出来るということ。自分のペースで自分が進めたいようにレッスンを進めることが出来るのだ。全体がざわ付けば、自分のマイクだけを生かしてレッスンが出来る。「なんという素晴らしい環境!これだったらもう世界のどこにいても、私英語のレッスンが出来るわ。今度から全クラスオンラインにしてしまおうかしら」そんなことを思った瞬間、強烈な違和感が私を捉える。

 私が自分の英語教室を始めたのは12年前。その後小学校で教えたりもしたが、自分の教室があることはいつもお守りみたいに私の心の平安だった。それは私がそこに「自分の理想の教育現場」を作ることが出来たからだ。
 敏感過ぎる程人の心を感じ取ってしまう私の特性を最大限に生かさなきゃ。子どもたち一人一人の心に真っ正面から向き合い、その子にとって必要だと思う対応をする。みんなが一緒に笑い、安心して学ぶことが出来る場所を作る。生徒の一言でレッスンの内容がググッと変わることもある。みんながその時学びたいことを英語という言葉に載せて自由に繋いでいく場所にしよう。決して発言をミュートして私のしたい方向にだけ動かす教室なんかではない。

 そう思うとストンと心が落ち着いた。私がしたかったのは、クラス8人が自分が疑問に持ったことやみんなに知らせたいことを口にして、人にそれを受け止めてもらう経験が出来る教室。確かにミュート機能は便利だし、シーンと静まり返った教室が好きな先生もいるだろう。ただ私の場合はその正反対。みんなが安心して発言出来る環境を常に意識しているので、ミュートするなんてもったいないのだ。

 この非常事態、オンラインという対応で一緒に新たな扉を開いた。閉じてしまった扉を嘆くのではなく、開いた扉があると信じてその扉を探す面白さを一緒に体験することが出来て良かった。そして何よりも私の「子どもたちに安全に学んでほしい」という気持ちと、それに賛同してくださり、家庭の中にオンラインレッスンをお子さんが受講出来るようにと短期間で設定をしてくださったおうちの方々に、心からの感謝を送りたい。
 子どもたちはそんな温かいチームに支えられ、楽しく学んでまっすぐ伸びている。
私は、オンラインでも一人一人の言いたいことを救う術を試行錯誤で学び中。それもまた一興なのだ。与えられた環境の中でもどうにかみんなで楽しむ工夫をする姿を子どもたちに見せたい。こんな空前絶後のピンチの中では、誰も出来ることなんて限られている。でも不恰好でもいい、諦めずに試行錯誤するクリエイティヴな大人の姿は、きっと子どもたちの希望に繋がると信じている。  

2020年02月08日

不登校って悪いこと?



 不登校と呼ばれる子たちについて。おうちの方々の初期対応が遅れてしまう要因として、それまでの間に「不登校は悪い」という概念が植えつけられていることだと思います。そこで「うちの子に限って」や「どうせ一時的なものだろう」と思って、無意識の内に軽くあしらってしまう、というケースも多く見られると思います。

 私がよく伺うお悩みの一つに「我が子が不登校になったらどうしよう」があります。信じられませんが、未だなっていないのに、なった時の心配です。それくらい「不登校は悪いこと」という考えが皆さんに広がって脅威になっているということです。確かに学校勤務時にはいろいろな理由で学校に来られない子どもたちのことを聞きました。おうちの方のお仕事の関係で家族全員が昼夜逆転、おうちの方が不在、などの家庭環境によるものもあれば、そもそもその子自体が集団に合わない。人の目や人の言葉がとても気になる。そして物理的なもの「いじめ」や「先生からの圧力」などです。

 そもそも学校に行かない理由なんて、「バナナが嫌いな理由」と同じで人それぞれ違って当たり前。それをなぜかみんなが一緒だと捉えて保護者のせいにしたり、学校のせいにしたりしてしまうから、その子自身から目が逸れてしまうのです。
 いやいや、まず「我が子が何かアクションを起こしている」そこに着目してみるのがベストです。理由?知りたいです。自分のせいじゃないことを確認したいです。でもそれはちょっと待ってください。まずは我が子の心です。「心が疲れている」ことは事実なので、そのお子さんにどんな対処が一番良いかを考えてみてください。よく「心が風邪をひいた」という例えを使いますが、風邪をひいた人にどう対応するか、とイメージするとわかりやすいでしょう。
 「休ませる」そうです。それが正解なんです。「どこでもらってきたのか」「なぜか」「その風邪は自分のせいでひいたんじゃないよね?」などは、最初の段階ではどうでも良いのです。その子がそれを悪化させないように、ただ休ませ見守るのが一番なのです。
 心が休まったら、子どもの方から話し始めることもあるでしょう。もしお家の方がそれを聞く自信がなかったら、心が落ち着いた時点で学校のカウンセラーの方などにお任せするのもよいかも知れません。お子さんの全責任を負って育てておられるおうちの方には少し荷が重いかも知れませんし、親の感情が揺れると敏感なお子さんは感じて、更に我慢をしたりして悪化させてしまう可能性もありますので、そこは大人の連携プレーでいけたら良いですね。

 お子さんが不登校かも、またもしお子さんが不登校になったらどうしよう、と不安な方。どうぞ一つだけ心に留めておいてください。不登校は悪いことではないのです。私はむしろこれからの日本を支える希望だと思います。メンタルヘルスに問題がある大人が急増中の日本で、自分の心の声をしっかり聞いて自分の行動を決めることが出来る子は、光なのです。大切に大切にしましょう。  

Posted by Nami sensei at 16:07Nami先生の育児コラム

2020年01月18日

みんなの居場所



 教室名物、保護者面談が始まりました。お一人お一人の保護者の皆さんと、お子さんのことをお話しする時間としてお一人30分ずつご用意して始めたのですが、時間が足りない方が続出。ということで、余裕を持ってお一人一時間ずつの希望制にしました。
 希望制にした理由は、子育てをする中でおうちの方の心配事や関心事は英語だけでないのが理解出来るからです。今は英語よりも他の事に限られた時間を割きたい、そんな方にも自由に選択していただきたかったのです。英語教室は長いお子さんで十数年、お子さんのそれまでの人生の大半をご一緒することになります。常に英語のことだけ考えてください、なんて息が詰まってしまいますものね。
 しかしながら、面談に長い時間を取るようになってから更に、おうちの方とのお話の割合が英語やお子さんのこと半分、おうちの方ご自身のこと半分、みたいになってきてそれもまた楽しいです。私は人の話を聴くのが大好きです。人が自分の好きなものの話をする姿が好きなのです。もちろん私自身が全く関心のないことでも、苦手とするものでも全然良いのです。ただ、好きなことの話をする人は輝いていて、幸せなオーラに満ちていて、それを一緒に感じるのが好きなのかも知れません。子どもたちの話も、そしておうちの方々のそういう話を楽しく聴かせていただける、それがとても幸せなのです。
 そしてもちろん、おうちの方が不安に思っておられる事などを知ることが、お子さんへのアプローチのヒントになることもあります。学校や教育に関して皆さんよりも少し多めに経験や知識があるので、実際はそこまでご心配されなくても良いですよ、ということも多々あります。
広告をはじめ、今社会全体が煽り煽られて皆が焦りを感じながら過ごしています。しかし、実情は根拠のないただの宣伝、謳い文句であることも多いのです。

 私が大事にしていることは、子どもたちの自尊心を大切に伸ばすこと。根拠のない自信で良いのです。まだ小さくて若くて可能性十分な子どもたちの限界を今決めてしまう必要はないのです。ただ明るい前向きな言葉で子どもたちを励まし、勇気付けて、仮に自分が失敗したと思うことや恥ずかしい気持ちになったとしても、先生は絶対にあなたのそばにいるよ、と伝え続けることが私がすべきことだと思います。
決して「それが出来ないとみんなに遅れる」とか「ちゃんとした大人になれない」などと脅す事ではありません。

 おうちの方にも、これだけはハッキリ言わせていただいています。
「英語に関してのダメ出しは絶対にしないでください。ただ褒めてください。」と。
調子に乗る?いいんです。調子に乗せてください
大好きなおうちの方の言葉が良くも悪くもお子さんにどう影響するかを、私は知っています。
お子さんを褒めるなんて照れ臭くて、という方はまずは演技でもポーズでも良いです。ほぉ、と関心を持ったり感心してあげてください。
それだけで、お子さんは驚く程自分で学んでいきます。
 今まで私たちがされてきた、してきた「脅し」や「焦らせる」教育と真っ向対決していきたいと思っています。私は自尊心にだけフォーカスしています。
なぜなら、それがお子さんを将来的に末長く自発的に学ばせ、伸ばしていくからです。

 保護者の方に言われて驚いた言葉がありました。
「子どもが家で、ハニラミでは無理をしなくていい、って言うんです」
「ここはパワースポットですか?」
 私は何もしていません、何もしないから良いのかも知れません。
子どもたちやおうちの方々が、焦らず、不安を感じず、自分は自分で良いんだと思える場所を作りたくて、今日も教室運営をしています。

 目に見える結果はすぐに出ています。それが必ずしも数字じゃないから、気付きにくいかも知れませんが。
お子さんが授業中に意見を言います。英語で感情を表します。文字を読み始めます。積極的になります。人前で話します。
でもそのどれがお子さんの持ち味か、それは人それぞれ。無限大です。
どうぞお子さん、またご自身の「出来ない部分」ではなく「出来るようになったこと」にフォーカスしてくださいね。

 ハニラミは皆さんの心の居場所でありたい。
そう思っています。今年はもっと。
  

2020年01月04日

2020年の英語の使い方 〜 こんにちは。Do you speak English? 〜



 2020年。今年はオリンピックイヤーということで、私たちにはその言葉以上にいろいろなことが期待されている年。
英語教育もここを目指して変わってきたような気がする。そんな年明けに、私たちは今年どんな風にどのくらい英語を使えばよいのか、について書きたい。

 私は以前強烈に日本に馴染みたいと願っていたアメリカ人の同僚から「教室では構わないが、職員室では英語で話して欲しくない」と言われたことがある。その時は軽い衝撃を受けた。日本で暮らしていると、『欧米人っぽい人には英語で話すべき』みたいな共通認識があって、私自身も海外でも日本国内でも欧米人には英語で話すのが当たり前だ、という暗黙のルールが染み付いていたから。
しかし、彼がこう言った時に例に出したことがとても納得いったのでここにシェアしておきたい。
『もし君が英語を学びにアメリカに行ったとしよう。その時に、もし現地の人たちが君に毎日日本語だけで話しかけてきたら、どう思う?』
なるほど。そういうことか、と思ってそれから私は英語の指導をする時には、まず生徒には「日本で話す場合は最初に日本語で話しかけてみて、難しそうだったら英語を話すかどうか確認するように」と伝えるようになった。
 
 しかしだからと言って「じゃ、英語使うことないじゃん」と言われると、それもどうかと思う。日本語を学んできて日本で使ってみようと張り切って遊びに来ている人には是非躊躇せず日本語でのコミュニケーションを楽しんで欲しいと思うが、もしそこで行き詰まった時に英語が大活躍するのだ。
それは相手がアメリカ人やイギリス人以外の場合でも同じ。あれ?今の日本語はちょっと難しすぎたかな、と思った時に少し英語で補足することでよりコミュニケーションを密に取ることが出来る。
 英語を使って海外の人をもてなす、というとかなりハードルが高めに感じるけれど、ゆっくりとした日本語の会話の中でちょっと英語でお互い理解を助けながら、となるとなんだか自分にも出来そうな気がしてくる。実際日本語を話せる海外の人は少ないが、そういう努力をして日本に来ている人がいるということは知っておいた方が良いだろう。今回タイトルに掲げている「こんにちは」は、まず最初に日本語で話しかけても大丈夫、ということ。そしてそこで相手がどうも日本語が全く無理そうだ、と思ったところで次の質問。"Do you speak English?"

 以前海外で面白い経験がある。私が泊まったホテルでレンタカーの申し込みをしていたところ、レンタカー会社の韓国人男性は英語を話したので英語でやりとりをしていたら、そこにロシア人男性が来た。彼は英語を全く話さなかった。そこでその韓国人男性と私が一生懸命身振りやスマホを使ってなんとかロシア語でその男性にレンタカーのシステムを説明した。日本人が側から見たら私たちアジア顔の二人よりもその金髪で目の青い男性の方が英語を話していると思うだろう、でも現実はその逆。
 ヨーロッパの方々が、「日本人は私たちを見るとすぐに英語で話しかけてくるけど、私は母国語しか話せない」というのは、よく聞く話。例えばドイツ出身でドイツ語と日本語だけしか話せない人に、一生懸命英語を話す、ということをしてしまうこともある。
また、ある人が「日本語を少し話してみた後にずっと英語で話しかけられたら、自分の日本語はまだまだ十分ではないと判断された気がする」と悲し気に語っていたのも印象的だった。

 英語を学ぶ必要がある、というのは正しいのだけれど、英語がないと全く話せないのかというとそうでもないかも知れない。
まずは日本語で笑顔で話しかけてみて、お手上げだったら周りの人と協力すれば良い。「英語を使うこと」を目的にするのではなく、日本を楽しみに来た人たちと楽しくコミュニケーションを取ることを目的にしよう。手段はその時その時で違っていい。
まずはハードルを下げて、「こんにちは。」と笑顔の交流をしてみよう。
  

2019年12月05日

ハニー&ラミーイングリッシュクラブって?



 英語教室の形が見えてきた。
私はどうしても「英語トレーニング方式」だけの教室は自分に向かないと思うので、対話を大切にしてきた。
英語教室なのに、まずは日本語の会話を多めに始めるのだ。
それはなぜかと言うと、子どもたちが「自分の意見を言っても良い」という気持ちになることを大切にしたいから。それには相互の信頼関係が必要。焦らずゆっくり育てる。やわらかくやわらかく、今自分がしていることの意味を感じられるように語りかけ、以下の言葉を言う。

「わからない時は、すぐに教えてね。絶対に先生は困らない。何度聞いても良いから。何度でも答えるから。」

「私はあなたたちの学びのためにここにいる」ことを伝える。
子どもたちは「え?」という顔になる。
「何度言ったらわかるの?」
「さっき言ったばかりじゃないの!」

という言葉はこの教室にはない。
それを数週間かけて子どもたちに体験してもらう。

それを言うと多くの方が気になるのは、きっと「デキる子たちの進度が遅れる」だろう。
私も元々自分も学校教育に育てられてきたので、そこは引っかかった。
でももう一度頭をゼロにして、また欧米の先生方との交流の中で海外の教育を学んでいたら頭の中が180度変わった。
そもそも「デキる子」ってなんだろ?
私の教室は英語教室。
ことばの教室だ。
他の教科のことはわからないが、ことばを使うにはテクニックだけでは不可能、というのは皆さんご存知だろう。
むしろコミュニケーションで大切なのは、相手を理解しようとする気持ちや、相手が何を言いたいのかを想像する力。
 いろいろな子どもたちのペースや価値観、タイミングに触れることで、私たちは同じ日本人同士でもお互いに「相違」があることに気付く。
その「相違」の取り扱いなのだが、それを間違えると大変なことになる。
現状では、その「相違」を多数決で決めてマイノリティ(少数派)を排除することで統制を図っている。認めたくないが、教育現場を含む多くの場所で取られている方法。でもそれは間違い例。本当に良い社会を作るのであれば、その「相違」をお互い尊重し合って受け止め合う方が良い。教育現場ならばそちらに誘導するのが最善であろうと思う。

 私は自分が出来ることとして、その環境を自分の小さな教室で作る。
英語はただのツールとはよく言われるけれど、もっと噛み砕いて言うと、英語で言えることは日本語で言えることに留まるということ。即ち、例えば日本語で自分の考えを言える人や、自分が好きなものをどうして好きなのか説明しその魅力を伝えることが出来る人は、英語でも何語でもそれが出来るということ。
 反対に、人と話したくない、言っても誰も聞いてくれない、人が自分が言ったことを何と思うか気になる…などいろいろなブロックがある人にとっては言葉以前の問題。しかし言語が変われば文化も変わる。英語は「話したい」「知りたい」「伝えたい」という表現の新たな希望に繋がるかもしれない。そういう期待を持って、私は英語を指導している。
 だから、私が一番大事にしているのは、英語を間違えなく言うことよりもまずは日本語でも良いから、「聞いて欲しい!」「知りたい!」という気持ち。それを大切に育てていきたいと思っている。

 そして二段構えで月に一度のバイリンガルクラスでは、アメリカ人の先生との英語だけのレッスンをセッティング。そこで思う存分アウトプットしてもらう。教室の先生方や私と、英語を話すマインドとテクニックを学んでアメリカ人の先生と英語のリアルな会話を楽しむ、良い流れが出来ている。
バイリンガルクラスは任意参加だが、参加生徒の変化で驚くのはリスニング力の向上と、話し方伝わる様に工夫するから、考え方が変わってくる。

 そんなこんなで、当ハニー&ラミーイングリッシュクラブは、子どもたちに一生ものの「思考力」「判断力」「発信力」「対話力」そして「英語力」を贈るべく授業を展開している。今、口コミやこのブログを見て共感してお子さんを連れて見える方も増えている。ありがたいこと。
是非点数や結果重視ではない、真の生きるための教育を求める人が増えることを祈りつつ、今日も私は子どもたちと学び合う。  

Posted by Nami sensei at 12:34Nami先生のつぶやき

2019年11月17日

国際人になる理由

 週に一度の英語教室で子どもたちに会って感じることは、「自分の意見や感想を言い慣れていない」子が多いこと。いや、感想文や意見文はよく書いています、と言われるかも知れないが、会話の中で子どもたちが本当に自分の思っていることではなく耳障りの良い言葉や評価されやすい言葉を選んでいることに、いささか恐怖と焦りを感じる。

 小学校で英語指導をしている時に、一緒に働いていたアメリカ人のALTが「通信簿の音楽や図工の『鑑賞』って何?どうやって評価するの?」と不思議そうに聞いてきた。なるほど、私にとっては悲しいかな子どもの頃からあった評価だから当たり前だと思っていたが、自分の感じ方の表し方を評価されるなんて不思議なことだ。そもそもその基準ってなんだろう。

 そんな人として当然の「感じる」自由も、評価対象になってそれを6歳、いやもっと早くから当たり前と思って育てられてきた子どもたちが自分の心の声を出せないのは当然のことなのだ。
教室では、まず自分のことを話す練習をする。何をして、何を楽しいと感じたのか。そしてそれはなぜか。自分の心に問う練習。それが言える様になったら、それを英語で話すのは簡単。
実は日本の子どもたちが一番苦労するのは、その英語以前の問題なのだ。
 そして気付いたことは、英語でも話していて楽しい子は学校ではちょっぴり目立つ存在だったり浮いている存在だったりするということ。学校の成績は知らないが、とにかく発想が豊かで会話の内容が自由で楽しいのだ。それは子どもたちみんなが持つ才能。それを良い形で維持している子たちは、日本語でも英語でも話すのは楽しい。

 どこかで誰かがその子の感じ方についてダメ出しをしたり、もっと上手に人に気に入られる様に細工することで、子どもたちの持つ素晴らしい感性や輝きは失われていく。
みんな同じ様な文章を書き、同じ様な感想を持ち、それがいつしか自分自身になっていく。溶け込むことこそ安心で美しい。正直、そういう人が国際人になるのは難しい。

 私は教室を作った時から国際人を育てたいと思っている。国際人とは日本人としての良さも持ちつつ、海外でも難なくやっていける人のことだと思っているが、当然英語が話せたからといってそうなれる訳ではない人を尊重し、人からの評価に振り回されず、自分の気持ちをまっすぐ丁寧に伝えられる人。
 しかし今もてはやされている教育がどうも反対に向かっていることが不思議でならない。人を落として人に落とされることを気にしている日々がそのまま大人になっても続くとしたら、それは怖いことだと子どもに問い続けよう。
 生き方は選べる。国際人として「活躍」はしなくても良いけれど、国際人になったらきっと心は自由になる。現代を日本人だけで生きていることは、あまりにも重く苦しいと思うのだ。
 英語を学ぶこと、使うことはもう一人の自分を育ててそこに翼をつける作業。それを学習者の皆さんと思いっきり楽しんでいる。  

Posted by Nami sensei at 18:10

2019年10月23日

「いじめ」は誰のもの?

 テレビや新聞を賑わす「教師間いじめ」は、社会問題になりつつあります。その報道やtwitterなどの感想を見ながら、私は次の「いじめ」が始まっていると感じます。「信じられない」「よくあんなこと出来るね」「あの人たちを徹底的に罰するべき」
皆さんの善い心がそれを言わせているのはよくわかります。それはもちろん正しいことなのでしょうが。私は不安を感じます。
「正義」の名の下に、私たちが今度は次のいじめの傍観者になっているのではないか、と。

 あるテレビ番組の爆笑問題の太田光氏の言葉が引っかかりました。そもそも「いじめは楽しいという本能が人にはあるのだ」ということ。
これには「確かに」という声と「そんな気持ち、自分にはない」という声で世論も二分されていると聞きますが、私はそこに「いじめ問題」の鍵があると思います。私自身は特性上テレビのお笑いの「いじり」も受け付けません。過去にいじめられたこともあります。それでも、自分の中に「人が困っている場面が面白い」と感じる心が全くないとは言い切れないな、と思いました。テレビのバラエティーでこれだけ「いじり」がもてはやされているのは、ニーズがあるからです。いじられた人が困っているのを見て大笑いしている人が、「いじめなんて信じられない」と自分とはまるで他の星の生物みたいに人を判断することに違和感を覚えます。それぞれの皆さんが自分の中にもそんな気持ちがないかと向き合ってみない限りは、この問題は解決しないどころかどんどん次のいじめを産んでいくでしょう。

 結局その「人が困っているところ、人の失敗が楽しい」と思う気持ちの延長線上にこの問題があるのです。
太田光氏は自分の「いじり」の基準を「客が引いたらやめる」と言っていました。みんな笑っていましたが、それは大切な一つの基準。自分が周りにウケてどんどん調子に乗ってしまった時、それを止められるのはやはり周りの人。その周りの人の役割が機能しているかどうかは怪しいものですが、本来社会はそうやって成り立つのが理想だと思うのです。
 
 自分の中にある「人が困るのを見て笑ってしまう」という気持ちに蓋をするのは簡単。今まで皆がそうして美しい自分を演じて来ました。しかしそんな感情があるからこそ、どうやってそれをコントロールするか、というところに立って初めて私たちはその感情や行為と共存することが出来るのです。そんな自分の心に蓋をして見て見ぬ振りをし続けることは、結局傍観する側に回るだけ。

 「相手の立場に立って」とは小学校の道徳でかなり言われてきた言葉ですが、それは良くも悪くも「道徳」という時間に限られた現実味のない言葉になってしまいました。感想文や反省文にそう書けば、なんとなくサマになります。しかしこれからの私たちは形ばかりでなく、本当に自己と向き合い自分の弱さを自分が感じてそれをどう乗り越えていくか、を考える必要があります。
 先生や親に「お前は弱いからなんとかしろ」とか「人の立場に立って考えているか」とか、「反省文を書け」とか。全て人から与えられ続けて考えた振り、向き合った振りをするのではなく、本当に自分の言葉で深い話が出来る様になれば良いのです。残念ながら、今そんな話が出来る場所を探すのは難しいでしょう。なぜなら、日本人は口を開けてじっとしていれば、誰かが何かを入れてくれて、どこかに連れて行ってくれることに慣れてしまっているから。そこにいるだけで、倫理的なものの考え方まで人が教えてくれるのです。コピーペーストしていれば、なんとなく馴染めてしまうのです。

 文科省が新しい教育改革で求める「主体性を持った」人は、実際本当に危機的に少なくなっていて、みんなその他大勢の中に溶け込むことに必死になっています。今起こっている様々な問題に大人が真剣に取り組む姿勢を今見せておかなければ。子どもたちは見ています。
 今の私たちの立ち振る舞い、覚悟が日本の未来を左右すると真剣に思うのです。