2018年09月05日
言葉と刃物
英語教師として英語を指導してきて十数年になるが、常に感じているのは「英語を学ぶ理由」がいろいろだということ。理由が違うということは、目標も違う。
将来必要だから、とお家の方が通わせている子どもたちは特に、自分自身に目標がないのに教室に通うのは大変だろう。そのためにまず私がすることは、その理由を作ること。それはいたって簡単。
「楽しいから」
「楽しいから」それがあれば、なんでも頑張ることができる。
そんな訳で「楽しい」雰囲気、楽しくなる学び方を常に追求しながら、子どもたちと向き合っている。
でも「楽しい」の中に必ず気をつけていることがある。それは「温かさ」「敬意」
相手をバカにしたり見下したりするために言葉があるとしたら、それはあまりにも悲し過ぎる。
「言葉は刃物にもなり得る」というが、それは事実。一生消えることのない傷を与えること、命を奪うこともできてしまう。それでいて、その刃物を使った本人は相手を傷つけたかどうかも気づかない場合がある。
「言葉は刃物」だとすると、英語が話せるからと鼻にかけて人をバカにする人は、刃物の使い方を間違って振り回し、周りの人を傷だらけにしているということになる。とあるテレビ番組で、日常的に英語を使う幼稚園の園児が、東大生の英語力をバカにするという企画があったが、見ていて不愉快極まりなかった。
明らかに「刃物、使えるんだぞ、すごいだろう」と言いながら間違った使い方で周りを傷つけている。
そういうことを平気でさせてしまうのは、その刃物の使い方を教える指導者の問題だと思う。
海外から来た人と話をしていると、その多くが「日本人の中で英語を話せる人は少ないが、時々英語は流暢なのにものすごい高飛車で人を見下す人に出会う」と言われることがある。「君は違うね」と言われてホッとするのだが、英語も日本語も言葉。言葉を使うことがとりわけ特別な訳でもないし、特に海外で生活をすると周り全員が英語を普通に話しているのを見て、今まで少しでも英語が話せて得意な気持ちになっていた自分を恥ずかしく思うこともある。
言葉を教えるとき、その刃物を使ってどんな風に美味しい料理を作るか、またその刃物でどんなに心を込めて美しい木彫りを作るのか…「刃物が使える」こと自体よりも、その刃物を使っていかに人を笑顔にするか、人と温かい時間を共有できるか、に重点を置きたい。
私は昔も今もこれからも、言葉をそんな風に教えていく。
そのために英語教師をしている。