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2018年06月03日

英語教育は間違ってなかった



 "If I have seen further it is by standing on the shoulders of giants."
以前、鹿児島県のグローカルアカデミー代表である岡本尚也さんの講演で聞いたこの言葉が、ずっと胸の中に留まっていた。
アイザック・ニュートンが手紙の中で用いた言葉で、意味は「私が遠くまで見通せるのは、巨人の肩に乗っていたからだ」即ち、「新しいと思っている発見も、先人の積み上げた経験や発明があったからこそ出来たものだ」ということ。

 そして先日、以前小学校で御一緒していた先生が私に『今までの英語教育は間違ってなかったんですよ』と言い切った時に、ハッとした。
私達は、今自分たちが英語を使いこなせないことを教育のせいにする傾向がある。
でも、その気になれば頭に簡単な英単語が浮かんでくる。商品のパッケージなど必要に応じて簡単な英文が読めて、意味もなんとなく推測出来る…それは今まで私達が受けて来た教育の実績だと言える。
日頃英語を全く使わない国民なのに、多くの人が英語を正しく読めるのは驚くべき事だ。

 今私達の欲求不満は「話したいのに、思う様に話せない。」「聞いてもなんと言っているのか、分からない。」それにプラスして、「そもそも何を言って良いのか分からない。」
それは今問題視されている、日本特有の「受け身の授業スタイル」に少し工夫をしたら克服出来そうな気がする。そして自分の意見を受け入れてもらえる場は必要。
ただ、それを「はい、じゃ今日からアクティヴラーニングして」と言ったところで、私達は自分たちが受けていない教育をすぐに実践することは不可能。それは特別な技術と知識、トレーニングをして自分の中に落とし込んで、やっと実践出来るものなのだ。

 さて、英語と言えば切っても切れない指導者問題。担任の先生がするのか、専科教員を置くのか、外国人指導者に任せるのか。
いずれにしても、子どもたちの心を揺さぶる、「やってみよう」という気持ちにさせる技術は必要不可欠。それ無くしては、日本の英語教育は成功しないどころか、後退していくだろう。間違いない。スピーキングテストをしてみたところで、その試験に合わせたマニュアルが出来て、それをコピーするだけ。本当の意味で「自分の考えを自分の言葉で述べる」という体験を積む場がない限り、スピーキング能力もテスト用のテクニックでしかなくなる訳だ。

 誰が子どもたちの前に立つにしても、「英語を使ってみたくなる」雰囲気を作って「自分にも出来るかも」そして「自分の声を誰かが聞いてくれる」という安心感を全員に100%持たせるくらいの勢いで挑まないと、英語は「英語教室や塾に通って英単語をどれだけたくさん知っているかを競い合う、ただの競技」になってしまうだろう。既にそういう意味では英語格差は、ものすごい勢いで広がっている

 私の敬愛する英語教師は皆、英語指導の技術と一緒に児童心理やコミュニケーション、叱り方、励まし方、伝え方、英語圏の教育、幅広く学んでいる。英語が話せるなら出来る、海外に住んでいたなら誰でも出来る、そんなものではない。中学高校の英語教師の免許を持っていたら出来るものでもないのだ。子どもの頃から親や家族がしてきた様に、安心感の中で言葉を学ぶ事の大切さを十分理解していないと、言葉が言葉でなくなってしまう。
 
 何が目的か、何が必要か、国がムリなら現場レベルで結果を出していくしかいかないところまで来ていると思う。英語が子どもたちに希望を与えることを知っているからこそ、今の現状が歯痒くてならないのだ。

でも不平を言う前に行動。

私は目の前の人達と一緒に実績を上げていく事に専念する。私の実績とは、英検の級だけじゃない、単語数だけじゃない、英語を当たり前に使って互いの意見を聴き合い、笑い合い、学び合う子どもたちのことだ。